午後1時44分、予定どおりフォーメイションラップが始まった。雲の間から差した夏の陽光が23台のボディを鈍く輝かせている。
直角右のーコーナーから、「ヘアピン」「S字」「レインボー」と続くコーナー群を抜け、バックストレートを下って「馬の背」「SP」そして最終コーナー
を駆け上がる、起伏に富んだ1周3.7qコース。そこに散らばった4万4500人の観衆は、これから繰り広げられる54周・1時間余の戦いが、日本の
レース史上に残る名勝負となることを、未だ知らないでいる。
第1戦/鈴鹿は星野一義が、第2戦/富士と第3戦/西日本はロス・チーバーが、そして第4戦/鈴鹿はエマヌエーレ・ピッロが制したが、4戦すべて
で4位以内に食い込んだ小河等も今や侮れぬ存在であり、迎えたここ菅生の第5戦でベテラン長谷見昌弘が80年以来9年ぶりのボールボジショ
ンを奪うと、混戦模様の度合いに一層拍草が掛かった。しかしこの時点で、2列スタッガードグリッドの中団、5列目左に位置した和田孝夫が勝つ
ことを予想した者は、おそらく皆無だったに違いない。いや、ひとりだけいたか。和田本人だ。事前の菅生テストでベストタイムをマーク、予選で
は気象条件の変化に対応しきれず10位に埋もれたが、決勝当日朝のウォームアップ走行では後続を0.8秒も離すトップタイムを記録し、自信を
深めていたのだ。
パッシングポイントの少ない菅生で前車を抜くには第ーコーナーの飛び込み勝負になるからと、直線スピードの伸びを優先しダウンフォースを
減らす方向で、パルスポーツの重山エンジニアとも意見が一致した。
最終コーナーからの急勾配を登ってきた各車がグリッドに整列し終えた直後、1時46分、レースの幕は切って落とされた。

***

PPの長谷見を出し抜いてチーバーがトップに立つ。長谷見、中谷、関谷正徳、小河、星野、ジェフ・リース、そして和田が踵を接して1コーナー
になだれ込む。珍しく好ダッシュを決めた和田は、前方にいたバオロ・バリッラとマウロ・マルティー二を早くもかわしたことになる。
1周2周と上位の順位は変わらない。数珠繋ぎの一列縦隊でレースは進行する。抜ける場所がないのだ。そんな中3周目、7位が入れ替わった。
菅生を得意とするリースが和田に抜かれ、たちまち離されていく。勢いづく和田は5周目の1コーナーで星野を抜いて6位、さらに6周目には小河
を、8周目には関谷を抜いて、4位へと這い上がっていく。
いずれもメインストレートで前車のスリップに入り、1コーナーあるいはその手前で抜いた。首位チーバーは1分16秒台。2位長谷見には3位中谷
が迫りつつあった。その中谷の背後に、10周を終えるところで和田が貼り付いた。12周目、和田は中谷をも抜き去り、13周目に入る直線では2位
長谷見のスリップに潜り込むと、アウトから仕掛けた。
しかしその数秒後、局面が変わる。
12位争いを演じていた鈴木利男のインに飛び込んだ松本恵二がスピン、コース上に後ろ向きに止まってしまった。赤旗が出る。
2時03分。13周目を走り終えたマシンがストレートで減速して停車する。後方の数台はピットヘと直行した。
2時10分。レースは2パート制で争われるとアナウンスされた。全車がコントロールライン通過完了した11周終了時点の順位により、40周のパート
2のグリッドが組まれ、再スタートとなるのだ。最終順位はパート1とパート2の合計タイムによって判定される。
2時18分。「タイヤはパート1使用のものに戻せ」という通達が出る。本来ピット作業をしてはいけない赤旗提示時にタイヤ交換を敢行したチームが
複数あったためだ。2時58分、ようやくパート2のフォーメイションラップ開始。赤旗の原因を作った松本を除く22台が、3時00分43秒一斉にスロット
ルを踏み込んだ。戦闘再開。



チーバーと和田がスルスルと加速していく。対照的に長谷見と中谷は伸びない。1コーナー、後方の2台が接触→コースアウト→リタイアに追い
込まれる。唯一の日本車MC041を駆る片山右京と北アイルランドのベテランケネス・アチソンだった。
再開1週目終了。チーバー、和田、長谷見、星野、関谷、小河、中谷、利男、サンドローサーラ、バリッラがトップ10だ。
2周終了、チーバーの背後に和田が付くが、抜けない。3周目も、4周目も、同じことが繰り返される。一騎打ちの様相。ロス・チーバーは独特の
レーススタイルを持っていた。「レイナード・ワークス」であり「ダンロップのエース」でもある彼は、予選ではあまり周回を重ねず、ここ一発の瞬発
カでポールタイムを叩き出すと、レースではマシンやタイヤを温存して後続草両を徹底的に抑え込む戦法をよく採った。ここまで3年余の日本で
のレース活動の中では何度か物識を醸す場面を演じてきてもいた。
5周目の1コーナーに向かうストレートエンドを全開で並走した両車は、ブレーキングテクニックの攻防に入った。チーバーは有利なイン側のライ
ンを死守し和田はアウトから仕掛けた。和田の方が車速はわずかに伸びていて、鼻の差、前に出た。チーバーは虚を突かれた。レイナードの右
前輪が縁石に乗ったのか、左フロントウイングが和田の右後輪にタッチしたのか、白とピンクに塗り分けられたカーナンバー11は姿勢を乱し、
コース上で大スピンを演じてしまう。
後続の星野と長谷見はこれを擦り抜けたが、続く小河は、方向転換すべくバックしたチーバーと左後輪同士で接触し、横っ飛びにガードレール
にクラッシュする羽目となった。チーバーと小河、ボイント争いをリードするふたりが一気に戦列から消え去った。
首位に立ったのは、そう、和田だ。2位を行く星野には黄旗追越しのぺナルティストップが科され、7周してピットロードに滑り込む間に14位にまで
転落する。
再スタート後の追い上げが期待されたものの、赤・白キャビンカラーの背後には青白い煙が吐き出されていて、間もなくオイルもれのために万事
休す。8周目、長谷見+関谷+中谷+マーティン・ドネリーの2位争いが白熱してくる。しかしここで』気鋭ドネリーがコースアウトして後退。しぱし
膠着状態の後22周目の1コーナーで関谷が長谷見を抜いて2位に上がった。中谷もまた長谷見をかわす。長谷見のマシンは明らかに変調をきた
していた。ゆっくり24周目を終えたボールシッターはクラッチ・トラブルのためピットでマシンを降りる。
トップに立った和田は1分14秒台コンスタントで走り、2位以下を周毎にグイグイ引き離していった。12周終了で21秒差、15周で26秒、17周で30秒
19周で35秒27周で50秒、31周で54秒。1周につき約2秒ずつ離すという信じられない格別の速さ。後続車から「逃げる」というより、後続の全車を
周回遅れにしてやろうと思っているかのようだ。コンペティティブな全日本F3000の中でも、これほど1台が抜きん出ることなど、近年ついぞなかっ
た。

和田孝夫のレースキャリアは長い。72年、富士フレッシュマンでデビュー。TSサニー一筋で腕を磨き、79年には全日本F2に進級して表彰台に
2回立ち、全日本FPチャンピオンにも輝いて、若手有望格と目された。時に26歳。ところが、FP王座を決めた翌日、つまり79年JAF鈴鹿GPの決勝
で、後方で接触事故を起こした外国人ドライバーのマシンが減速中の和田の上に逆さに落下、和田は意識不明の重体となる。幸い一命は取り
留め、翌春にはレース復帰を果たすものの、その後、長いスランプに陥った。80年代後半になってようやく第一線に復帰し、本来の和田らしいダ
イナミックなレースっぷりが目立ってくるが、トップフォーミュラでの勝利はなかなか掴めなかった。和田の履くヨコハマタイヤが、先発のブリヂス
トンやダンロップと比較して相対的に当たり外れが大きく、安定した強さを見せる場面が少なかったこともある。またヨコハマ・アドバン勢としては
先輩格の高橋国光や高橋健二が常に優遇されていたこともある。
そんな和田が88年春、富士GCの最終ラップに劇的な逆転初優勝を遂げ、夏の富士F3000でもブッチギリ初優勝、そして年が明けて89年春、PP
を奪った富士F3000ではピットからの最後尾スタートを余儀なくされたにもかかわらず猛追に次ぐ猛追で遂に首位チーバーの背後に貼り付いた
瞬間にタイヤバンクに見舞われ、FISCO全体を深い溜め息に包ませたりもしていた。いずれにせよ、「和田は何かをしてくれる」という期待感がこ
のところどのサーキットでも漂っていた。
そして実際、この目の菅生でも、サングラスの奥で和田孝夫の目はいつにも増して光り輝いていた。ダークグレーのティノラスカラーをまとった
ローラT89/50は、もはや異次元の世界にあった。誰もその座を脅かせるわけがなかった。予選では10位にすぎなかった和田に対して、今や誰
もが勝利を確信していた。

***

40周で競われるパート2も終盤33周目を終えようという時、「それ」は起こった。
最終コーナーの立ち上がり、登りにかかるところで、8位のリースは後方から首位和田が猛烈な勢いで迫ってきているのに気つき、ラインを譲ろ
うとした。和田はリースが一瞬失速したように感じ、慌てて左に逃げた。5速全開で荷重が掛かった左タイヤを踏み外した和田はグリーンに飛ぴ
出て大スピン。コースに戻ったその左後輪に、1周遅れで9位の岡田秀樹が避け切れずに接触、岡田はイン側のガードレールにまで飛んでいっ
た。どうにかコースに戻れた和田だったが、果たしてダメージはないのか。ここで2位関谷が突如ピットイン、バッテリー不調ですぐに降りてしま
う鮮やかなレイトンハウス・マーチは立て続けに2台とも消え去った。
34周が終わった。首位和田と2位に上がってきた中谷との差は21秒だ。35周で20秒、36周で18秒、37周で17秒、38周で16秒。毎周確実に縮まっ
てきている。
しかし残りはあと2周だけ。パート1で和田は0秒18だけ中谷の後ろにいた。このままのぺ-スでマシンを労わって2周走り切れば、和田の勝利は動
かない……はずだった。
最終ラップ40周目の1コーナー、和田のマシンがアウトのグリーンにオーバーランした。ヨタヨタとコースに戻ったマシンの状態は誰の目にも分か
るくらい、酷かった。コーナーによっては3輪走行となった。もちろんぺースは大幅に落とさざるをえない。先ほどの最終コーナーで負ったリヤサ
スペンションのダメージは周毎に悪化し、ポッキリ折れたアッパーアームがブレーキホースを傷つけノーブレーキ状態となってしまったのだ。リタ
イアか。それでも和田は暴れる3輪車を必死にコントロールしてコース上に踏み留まった。2位の中谷がコーナーごとに差を詰めてくる。一時50秒
以上あった貯金は見る見る霧散していく。観客は総立ちとなった。ピットとの無線交信などない時代だ。最終コーナーをよろよろと立ち上がり、最
後の直線に掛かった和田は「まだあと1周ある。何とか保たせなければ」と勘違いしていた。ピットウォールに群がったチームクルーや観客の興
奮ぶりを見て、すべてを一瞬で理解した和田は、緩めていた右足をグイと踏み込んだ。
チェッカードフラッグが菅生の夏空に舞い、和田+周回遅れの清水正智+全開の中谷の3車が0.5秒間に駆け抜けていった。
2パートのタイム合計の結果、優勝・和田と2位中谷の差は、たった0秒32でしかなかった。もし和田がチェッカーに気付くのが一瞬遅れていたら
勝敗はまた違うものになっていたかもしれない。
午後4時。興奮の余韻も醒めぬスタンド前、初表彰台の中谷とマルティー二を従えて和田がシャンパンを抜くと、しばし拍手は鳴り止まなかった。